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福岡家庭裁判所久留米支部 昭和54年(家)799号 審判 1980年2月18日

申立人 鎌田貞子

主文

申立人からの、被相続人鎌田勝の相続を放棄する旨の申述を受理する。

理由

申立及びその理由の要旨は、申立人の実母である被相続人鎌田勝は昭和五三年八月二六日死亡し、その相続人は申立人ほか三名である。当時被相続人勝は久留米市○○町×××番地で一人で暮していたが、無職無収入で、何らの資産もなく、肩書住所地に住む申立人の仕送りと老齢年金でその生活を維持していた。申立人は、被相続人の生活は貧しくとも困窮しているなどとはつゆ程も思つていなかつたので、同人の遺産は積極消極とも皆無のものと考え、死亡後三か月の期間を徒過した。ところが、昭和五四年一二月一日頃、被相続人の近所に住む藤田信子から、被相続人が生前、前後七回に亘つて合計金一五万四、四〇〇円を借受けているので、その金員を相続人として支払うよう請求され、はじめて、被相続人に債務があり、申立人がその債務を相続したことを覚知した。そこで、申立人は、その相続放棄の申述をなすべく、本申立に及んだ、ということである。

被相続人の除籍騰本によると、被相続人が死亡したのは昭和五三年八月二六日であることが認められ、また本件記録によると、申立人が当裁判所に相続放棄の申述書を提出したのは昭和五四年一二月一四日であることが認められるから、本件申立は被相続人の死亡後三か月を経過してなされたことが明らかである。

しかし、申立人の戸籍騰本、藤田信子の申立人宛の手紙、申立人、鎌田勇一及び鎌田浩の各審問の結果によると、申立人の主張のすべての事実及び被相続人が藤田信子から借受けた金員は、被相続人の生活資金に費消されたものではなく、事業に失敗した次男鎌田浩に乞われて、その負債の返済に充てられたものであることが認められる。

よつて検討するに、民法九一五条一項本文所定の「自己のために相続の開始があつたことを知つた」というためには、単に相続人が被相続人の死亡という事実及びそれによつて自己が相続人となつたことを知つたというに止まらず、何らかの遺産が存在しているとの認識を要するものと解するのが相当である。けだし、もし、上記のように解せず、被相続人死亡の事実のほか、これによつて自己が相続人となつたことを知つたことをもつて足りるとすると、本件のように相続人において遺産は積極消極とも全く存在しないと考えている場合にも、相続人が相続債務の相続を欲しないならば、将来万一なんらかの相続債務の発見されることをおもんばかつて相続放棄をせざるを得なくなり、些か相続人に酷であるのみならず、放棄しても、事実相続債務が存在しない場合には、放棄の意見と発生すべき効果との間にそごを生じることにもなるし、また、もし放棄をしないでいると、三か月の熟慮期間経過後に、相続債務が発見された場合には、本来、被相続人自らがその責任において決済すべき債務を相続人の意思に反してまで相続人にその履行を強いることになり、個人の自由、個人意思の尊重を指導理念とする近代私法の原則に違反し、ひいては、三か月の熟慮期間の経過をまつて、相続人に相続債務の履行を求める相続債権者の巧妙な常套手段を容認することになり、もともと被相続人の財産をあてにして信用を与えるべき相続債権者を不当に保護する結果ともなるからである。

もつとも、相続人において遺産の有無が明確でないときは、民法九一五条一項但書により、家庭裁判所に請求して熟慮期間の伸長を得、その間に調査したうえ、相続の承認ないし放棄のいずれによるかを判断し得るから、相続人において、被相続人死亡の事実と、自己が相続人となつた事実を認識しさえすれば、三か月の熟慮期間は進行すると解すべきであるとの見解がないではない。しかし、仮にかかる場合に、熟慮期間の伸長が許容されるとしても、本件のように、遺産は積極消極とも皆無であると考えている場合にまで、期間伸長の申立をせよというのは相続人に酷であるのみならず、また仮に、その申立により熟慮期間の伸長が許容されたとしても、相続型態の選択はそのいずれかに早く確定することが公益的立場からいつても望ましいことからすると、家庭裁判所において伸長される期間は本件のような場合にはさほど長期のものでなく、その多くは数か月に過ぎないものと思料されるから、家庭裁判所において熟慮期間の伸長が得られることを理由に、熟慮期間の進行には、相続人が遺産の存在について認識することを要しないとする上記見解にはにわかに左袒することはできない。

そして、申立人が、昭和五四年一二月一日頃、相続債権者たる藤田信子から上記債務を相続人として支払うよう請求されて、はじめて被相続人債務があり、申立人がその債務を相続したことを知り、その時から法定の熟慮期間たる三か月以内の同年一二月一四日に当裁判所に相続放棄の申述書を提出したことは上記認定のとおりであるから、申立人の本件相続放棄の申述は申立人の真意によつて、その熟慮期間内になされたものというべきである。よって申立人の本件相続放棄の申述はこれを受理すべきものとし、主文のとおり審判する

(家事審判官 鍬守正一)

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